昭和50年08月10日 特別奉修委員



 只今あの指出の久保山さんが、お届けをされます。まぁ色々と有難い事を一杯頂いておられますが。その中に、沢山な菊の花をもう、重たい様にこう頂いて。でそれにこう水を、逆水ですかね、掛けておるところを頂いて。だからもうそこだけで良いね、て言うた事でしたけれども。菊の花といやまぁ合楽の信心と云う事でしょう。もう一番有り難い、生粋の有難い、合楽の信心でしょう。
 だからあの特にならこうしてあの皆さんの特別奉修をなさるような方達の場合なんかは、もう一人一人皆もう重たい位に、菊の花はもっておられると思うですね。私はあの先日告別式のその後に、お礼に、善導寺にでらせて頂きましたら、こちらが沢山菊の花を、やら他の色んな花を差し上げておった訳です。それを霊神様のこんな大きな壷に、もうそのまま、ポンといれて、入れてから、霊神様の前にお供えして御座いましたですけれども。もう返って見苦しいですね。
 あの色彩とかまた枝振りとかこうして初めて、なら多いからばっかり、多いだけが能ではない。やっぱりあの適当な、矢張り枝振りとか色彩とかというものが、まず考えられなきゃならない。同時に矢張り花には花の位置がありますから。それをいうなら盛るは何にしろ、生花にしろなら心添え体なら、心添え体というその芯になる所の、矢張り手解きを受けて、そしてそれに沿うた入れ方が出来る時に、もう誰が見ても素晴らしいなぁと言う事になるのじゃないでしょうか。
 私が善導寺で見たその花の限りでは、こりゃ返ってお供えせん方がよかちゅう感じに入れちゃったです。今あそこはあのお花をする人が奥様も出来ん、しなさらんし若奥様もなさらん訳です。だから合楽が持って行ったとばそのまま、ポンとこう入れてある訳です。それがねですからもうあげな、だぶだぶぶしてしもうちから花いれるなら、もう見掛けも返ってあの見苦しいもんだなぁと私が、その時思った事でしたけれどもね。まぁお互いの信心がそういう所じゃないだろうか。
 もうとにかくあのいうならばお生花ならお生花、盛り花なら盛り花なげんなら投げ入れに、その本当にあの稽古が出来ていれたら、誰だってこりゃおかしか、とかいけんとかちゅう者はおらんと思うです。まぁ素晴らしいなぁ花が素晴らしいなぁ。私達も稽古しようかちゅうごたる気になると思うです。所がほんな持って行ったとをそのままドンとこう、壷の中に入れておる様な事だからです、返って信心が見苦しいものに見えたり、非難を受ける元になったりと言った様な事になるのじゃないでしょうかね。
 一つそれにはまず基本であるところの、心添え体と言う事をですね、一つ考えてみたら良いですね。心は心たいは五体と頂いたら良いですね。いうなら心と体添えと言う事はおかげです。矢張りあのお添えおかげをね、おかげがやっぱ頂きよらなければ皆が、あの何時まっでんあげん貧乏しよる御座るじゃんの。何時まっでん家はガタガタし御座るじゃんのではね、あのやっぱついて来ません。
 やっぱ成程信心し御座るけんで、いわゆるその添えのおかげというものが頂けて、そしてそれに、なら心と体とがね。あの内外共に段々出来て行くという、そこん所に私はまた折角の沢山な花の材料を頂いて帰っておられるのです。持っておられるのですしその菊の花を持っておられるのですから、ただそれ持って帰ってポンとうちの壷の中に入れただけではね、返ってその信心が見苦しいと言う様な事になる。
 矢張り傾向があります。ですから本気で矢張り、その一本一本のまぁ気取りというですか、その色彩感覚というか、ね、それにはやっぱり一つの形というのがちゃんとこう決まってるんですから。だからこれを稽古なさってどんな花でも、活けこなせれる。活け上げられれるおかげを頂いたら、皆が素晴らしいなぁと言う様な事になるのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。